爆风スランプ

爆风スランプ

简介:爆風スランプ简介 爆風スランプ(ばくふうスランプ、BAKUFU-SLUMP)は日本のロックバンド。1984年メジャーデビュー。 サンプラザ中野(サンプラザなかの):ボーカル - 2008年に芸名をサンプラザ中野くんに変更。 パッパラー河合(パッパラーかわい):ギター ファンキー末吉(ファンキーすえよし):ドラム バーベQ和佐田(バーベキューわさだ):ベース(1989年-) 過去に在籍したメンバー はひふへほーじん(江川ほーじん):ベース(1982年-1989年) 活動の歴史    メジャーデビュー前後 ヤマハ音楽振興会主催のバンドコンテストであるEastWest(1981年)にて、最優秀グランプリを受賞した『爆風銃』(バップガン)のメンバーであったファンキー末吉と江川ほーじん、優秀グループ賞を受賞した『スーパースランプ』のサンプラザ中野とパッパラー河合の4人により結成される。当初、ユニークな歌詞やライブで客席に消火器をばら撒いたり、スイカを投げたり、頭の上に花火を置いたりするなど過激なパフォーマンスをしていたため、“コミックバンド”という見方をされていた。そのため、メジャーデビュー当時は同じソニー系列のレコード会社に所属していた聖飢魔II(FITZBEATレーベル)、米米CLUB(CBSソニー)と合わせて「ソニー三大色物バンド」と呼ばれていたこともあった。デビュー当時の所属事務所はオフィスすいか。1985年6月に夜のヒットスタジオDELUXEに初出演を果たすが、オープニングトークで頭の上に火を付けたり、スタジオ内を歩き回り出演者やオーケストラ演奏者と握手したり、花火を口にくわえたり大暴れ。その後も同番組に出演した際は、THE ALFEEのセットを壊したり、テレビカメラの上に乗ったりと大暴れし続ける。 この数日後にザ・ベストテンにスポットライトで出演した際も、スタジオ内を暴れまわる。1985年12月13日に、日本武道館での初ライブを果たす。1984年に九段会館でライブを行った後、中野がトイレの窓から武道館を見て、あそこでライブをやりたいなーと思った後、レコード会社から「来年武道館を予約しておきました。」と言われ、武道館でのライブが行われることになったという逸話がある。 サンプラザ中野は、自分たちが武道館を満席に出来るわけがないと思っていた。そこから発想して「武道館に空席があるのは、ペンフレンドの女の子を誘ったが来てくれなかったから」、という言い訳ソングが作られた。後に彼らの代表作の1つとして評価されることとなる「大きな玉ねぎの下で」(「大きな玉ねぎの下で 〜はるかなる想い」も参照)である。 その後は強力なリズムセクションを擁した実力派バンドとして徐々に認められていった。   Runnerのヒット バンド活動に限界が見え始めてきたことから、1986年にプロデューサーとして新田一郎を迎え、新田が社長を務める代官山プロダクションに移籍した。新田はまず、売れることを目的とした活動を始めることにしたが、江川ほーじんがそれに反発して遂には脱退を決意。末吉の作った曲に、中野が辞めていく江川の姿を詞にして、「Runner」が誕生、1988年に発表された。その後NHK総合の音楽番組『ジャストポップアップ』にて演奏し、番組の元にリクエストが殺到。これがきっかけで、1988年の『第39回NHK紅白歌合戦』にも出場を果たし、翌年(1989年)1月9日の二度目の武道館公演を行った。そして江川はこの公演を最後に去っていく。ちなみに当初の予定では1月7-9日の3日間公演であったが、昭和天皇崩御により7、8日公演を「自粛」中止。『天才・たけしの元気が出るテレビ』の挿入歌に使用された「Runner」は、初のビッグヒットとなった。カラオケでもノリのいい曲として脚光を浴び、また現在でも高校野球のブラスバンドの応援歌における定番曲としても定着する。江川脱退後、ベーシスト不在期間のテレビ出演などに際しては、現在は同じアミューズ所属のサザンオールスターズの関口和之や、古くから親交がある聖飢魔IIのゼノン石川(現・石川俊介)、THE ALFEEの桜井賢、SHOW-YAの仙波さとみ、プリンセス・プリンセスの渡辺敦子、男闘呼組の高橋一也、スターダストレビューの柿沼清史、カシオペアのキーボーディスト向谷実(シンセベースを演奏)、千葉のローカルタレントジャガーなどのミュージシャンが代役を務めた。その後、兄弟バンド的な存在だったTOPSのベーシストだった和佐田達彦(バーベQ和佐田)が正式メンバーとして加わった。爆風スランプとしてのメンバーチェンジはこの時だけである。ちなみに、同時期に活躍した聖飢魔IIやTOPSとは親交が深かったこともあり、共同でライブを行ったり、TOPSのボーカルの三井雅弘はTOPS解散後、爆風スランプのマネージャーに就いたりもした。プリンセス・プリンセスとは、中野が住んでいたアパートにプリンセス・プリンセスのプロデューサーが住んでいたこともあり、よく一緒に酒を飲んでいて、プリンセス・プリンセスはこの時、「私達、本当に売れたいんです。」と話していたという。   ヒット曲の連発〜長期休養 1989年に現在の所属事務所アミューズに移籍してからも、「月光」「リゾ・ラバ」とヒット曲を続々と生み出し、アルバム『しあわせ』に収められていた「大きな玉ねぎの下で」のリメイクバージョン「大きな玉ねぎの下で 〜はるかなる想い」も大ヒットとなった。この時期、日本テレビで冠番組『爆風スランプのお店(爆店)』も放送されている。その後、メンバーの疲労も蓄積したため、個々のメンバーが海外へ出向き長期休暇を取ることとなった。海外での経験はアルバム『ORAGAYO〜in the 7th heaven〜』に生かされ、アルバム『In the 7th heaven』にはサンプラザ中野・パッパラー河合が南アフリカでの政治デモで演奏した曲(生録音)が収録された。また、中国へ出向いたファンキー末吉はそれ以来中国に魅せられ、ついには中国に活動の主軸を移し"Asian Drum King"と呼ばれるようになった。しかし、長期休養後に発売されたアルバム(『ORAGAYO〜in the 7th heaven〜』)・シングルの売れ行きは芳しくなかった。   低迷期・ソロ活動 『ORAGAYO〜in the 7th heaven〜』の後に発売されたアルバム「青春王」はヒット曲「Runner」と同様に「青春」を軸に製作されたアルバムだが、これも売上は芳しくなかった。メジャーデビュー前後の「破天荒」、ミリオンヒットを生み出した「青春」という主軸を失った爆風スランプは、ヒット曲らしいヒット曲は「涙2(LOVEヴァージョン)」のみで、長い低迷期をさまようこととなった。その間、各メンバーはソロ活動を行うようになり、それぞれ成果を上げている。この間の1992年11月6日にはミュージックステーションに出演、サンプラザ中野が客席へダイブし豆電球2個とパネル1枚を破損するなど、破天荒さの片鱗を留めた姿も見せた。サンプラザ中野ジングルベルコンピレーション『Jingle All the Way!』(バップ)で「ジングルベル〜サンタさんとトナカイさん〜」を収録ファンキー末吉・バーベQ和佐田BBF(「爆風スランプのバーベQ和佐田とファンキー末吉」の略語)というユニットを組み、アルバム「ZUM ZUM PARADISE」をリリースファンキー末吉ロックバンド「ノイズ・ファクトリー」のプロデュース中国でのアーティストのプロデュースソロアルバム「亜洲鼓魂」のリリースパッパラー河合女王様という芸名で、クイーンなどの英語詞を直訳した曲をリリース(当時は王様のヒットもあり、直訳ロックが流行していた)ポケットビスケッツのプロデュース・作曲   電波少年とのタイアップ 進め!電波少年中の企画「猿岩石のユーラシア大陸横断ヒッチハイク」の応援曲として「旅人よ〜The Longest Journey」が採用され、企画の人気と同様、ヒット曲となった。直後に発売されたアルバム『怪物くん』は2枚組(初版限定)で発売され、爆風スランプ・レコード会社の力の入れ様がうかがわれるものだった。   活動休止 アルバム『ハードボイルド』を発表した翌年、1999年4月に活動休止を発表。 活動休止後 1999年4月に活動休止後、中野と河合はスーパースランプを再結成。末吉と和佐田は、ハードロックバンドX.Y.Z.→Aにて活動中。また、1989年に脱退した江川は、ファンクバンド"RHINOCEROS"(ライナセロス)、ツインベースのバンド「ダブラーズ」などで活動中。2004年の12月に、当時中野が火曜コメンテーターを務めていたABCテレビ「おはよう朝日です」の企画で一夜限りの再結成を果たし、大阪のABCホールで熱唱。この時、和佐田もスキンヘッドにしていたためメンバーの4人中3人がスキンヘッド。久しぶりに歌ったせいか中野の声は不安定だった。また、2005年12月19日-20日の2日間限定で、新宿コマ劇場にて、再結成ライブ「45歳のフェス(恋愛の日・青春の日)」を行った。20日のラストでは、中野が込み上げ歌えなくなった場面もあった。また、河合の弁髪が身体的事情により無くなったことも判明。このライブはUSENの無料パソコンテレビGyaOで配信された。2007年12月30日には、1日限りの再結成として、名古屋のライブハウス「ELL」の「THANX! ELL 30th ANNIVERSARY SPECIAL」に参加し、2年振りのライブを行った。共演は175R。175Rは爆風スランプの6thアルバム『I.B.W-It's a Beautiful World-』の楽曲「それから」をカバーした。2008年10月5日には、大堀川防災レクリエーション公園にて、河合以外のメンバー、中野、末吉、和佐田でほぼ爆風スランプとして(後に「サンプラザ中野くんバンド」、「SFQ」と改名)、「音街かしわ2008〜MUSIC PLATFORM〜」に参加。爆風スランプ時代の楽曲を披露した。2010年12月12日には、東京国際フォーラムで1日だけの復活ライブ「爆風復活しまんすライブ!!〜サンプラザ中野くん50歳だー!!〜」を行った。このライブでは、サンプラザ中野くん50歳を記念して様々なサプライズを展開。開演前の入場アナウンスにデーモン閣下が登場。同日の同場所、隣のホールで聖飢魔IIのミサが開催されていた為に布教しに来たという。また、本編曲中「無理だ」の中で、無理なことをやり続けている電撃ネットワークも登場。サンプラザ中野くん、パッパラー河合が電撃ネットワークの餌食となって盛り上げた。2011年9月、ファンキー末吉が、爆風スランプのトリビュートアルバムをプロデュースすることが決まり、親交のあるミュージシャンを中心に参加を募った。賛同したミュージシャンは、アースシェイカー、生田ノブヤ(ノイズファクトリー)、石川俊介(聖飢魔II)、内田雄一郎(筋肉少女帯)、梅原"PAUL"達也(44マグナム)、X.Y.Z.→A、王様、サンプラザ高円寺くん、渡辺英樹・田口智治・笠浩二・米川英之(C-C-B名義)、曾我泰久(THE GOOD-BYE)、田中雅之(ex.クリスタルキング)、デーモン閣下(聖飢魔II)、ホッピー神山、三井雅弘(ex.Tops)、山下昌良(ラウドネス)、ロリータ18号など[1]。 2011年12月25日、爆風スランプのトリビュートアルバム『We Love Bakufu Slump』発売。2013年1月15日、前述のアルバムに、ACE、CRACK BANQEST、ROLLY、ザ・キャプテンズ、上野まな、オズ、和佐田達彦、山本恭司、話音(野村義男+力石理江)らが新たに参加した『爆風トリビュートComplete』を発売。参加アーティスト数組が出演する発売記念ライブが同年1月13日、14日に行われた。 楽曲 曲は当初、中崎英也などの外部作曲家によるものも多少あったが、3枚目のアルバム『楽』(1986年)の頃より、ほとんどがメンバーの手によるものとなる。以降、作詞のほとんどはサンプラザ中野によるものであり、また、作曲のほとんどは河合、末吉、江川らメンバーが手掛けたものとなった。『怪物くん』からは和佐田も本格的に作曲に参加し始めた。 サウンド面の特徴としては、まず「爆風銃」出身の末吉と江川によるヘヴィーでファンク色の強いリズムがあり、そこに、プログレッシヴ・ロックやヘヴィメタルの影響の強いパッパラー河合のギターが、時に異様な音世界を繰り広げ、歌謡曲と童謡を織り交ぜた明るくもハスキーな中野のボーカルが乗るという独特なものであった。 同時期に活躍していたほかのバンドに比べて洋楽嗜好が強く、楽曲の幾つかは有名な洋楽バンドの曲をパロディにしたものも多い。ヒット曲は「無理だ!」(「〜決定版」のほうは、歌詞に不適切な部分【いわゆる放送禁止用語】があったため、NHKで放送禁止)、「Runner」、「リゾ・ラバ」、「大きな玉ねぎの下で」等がある。 パロディ 先述したように、爆風スランプの楽曲には国内外の有名な曲をパロディにしたものがある。各ディスコグラフィー内の項目も参照。『ORAGAYO』収録の「組曲『天下御免の回り物』より 第一章 カネ(マネーに捧ぐ)」はピンク・フロイドの「Money」が元ネタ。イントロがそろばんを弾く音で始まるが、「Money」のキャッシャーのSEで始まるイントロにそっくりである。『アジポン』収録の「アジャパニジア」はキング・クリムゾンの「21世紀のスキッツォイド・マン(21世紀の精神異常者)」のリフをそのまま使用している。作曲者のクレジットにはクリムゾンのメンバーが記載されている。『I.B.W-It's a Beautiful World-』収録の「KASHIWA マイ・ラブ」は松任谷由実の「埠頭を渡る風」と「中央フリーウェイ」をモチーフにして作られたといわれている。『HIGH LANDER』収録の「スパる」は谷村新司の「昴」のサビ部分のパロディがあり、谷村氏に許可を取ったと当時発言している。
[更多][举报]

查看更多内容,请下载客户端

立即下载
举报反馈播放器